お金とともに財布も変化してきています。
そもそもお金って何なのでしょう?
最終回の3回目は、
・貨幣の改鋳
・文明開化以降の政治とお金
・現在の管理通貨制度とお金
について書かせていただきます。
今までの話の流れはこちらから↓
お金と財布の歴史 貨幣博物館見学~はじめに~
お金と財布の歴史 貨幣博物館見学~2回目~
16世紀になると、戦国大名による商業振興策や城下町の建設、中国との貿易の活発化などから高額貨幣への需要が増加しました。
織田信長の楽市・楽座は有名です。
その一方、鉱山開発も積極的に進められ、各地で金貨や銀貨が作られました。
金貨や銀貨は重さを計って使われていました(秤量貨幣)が、戦国大名の武田氏の領国である甲斐(現在の山梨県)では、一定の重さの単位により額面を表示した金貨(計数貨幣)である甲州金を使用していました。
その後、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長金銀貨を発行して統一を図りました。
1601年(慶長6年)に小判・一分金・丁銀・豆板銀などを発行しています。
このころも渡来銭は使用されていましたが、幕府自らが発行した寛永通宝に統一していきました。
(実はこの寛永通宝…法的な国内での使用廃止になったのは、1953年(昭和28年)のことなのです。
「銭・里」単位のお金を廃止する「少額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律」により同年12月末限りで通用停止となりました。)
また、伊勢山田地方の商人(神職でもあった)が銀の端数の預かり証としておつりの代わりに出していた紙のお札があります。
日本のお札の始まりとされているこのお札を、山田羽書(やまだはがき)といいます。
貨幣の改鋳
江戸幕府を開いて90年ほど経つ元禄の頃は、幕府財政が悪化し、金貨・銀貨をつくるための金銀地金も不足し、貨幣の改鋳が行われました。
金貨や銀貨に含まれる金銀の量を大幅に減らしたのです。
この結果、貨幣の量が増加して物価は上昇し、庶民の生活が苦しくなりました。
この頃は、貨幣の改鋳が頻繁に行われており、物価の上昇下落が激しく、農民や武士の不平不満が高まりまっていました。
その中で、1853年(嘉永年)にペリーが来航し、日本は日米修好通商条約を締結(1858年)。
欧米諸国と貿易を開始しています。
当時の日本は、外国に比べて金が銀に対して割安だったため、安い金を求めて外国から大量の銀貨が持ち込まれて交換され、金貨がどんどん海外に流出する事態が発生しました。
これを防ぐため、幕府は1860年(万延元年)に小判の大きさを1/3に小さくしました。
<小判の重さと金の含有率の比較>
慶長小判の重さは約17.9g、金の含有量は約84%
元文小判の重さは約13.1g、金の含有量は約66%
万延小判の重さは約3.3g、金の含有量は約57%
文明開化以降の政治とお金
江戸幕府が大政奉還を行い、近代国家の建設を目指した明治政府ができました。
新しい時代の幕開けです。
ただ、当初は貨幣制度を整備するゆとりがなく、江戸時代の金・銀・銅貨(銭)や藩札などをそのまま通用させました。
その一方で新たに太政官札という紙幣を発行しました。
そして、少額貨幣不足を補うために、民部省札という紙幣も発行しました。
さらに、1869年(明治2年)には、国内外の商業の振興を目的として、江戸期以来の富商を中心に通商会社と為替会社を各8社設立させ、為替会社には紙幣の発行を認めました。
つまり、明治政府が発行した紙幣以外にも各種の貨幣が混在している状態で、貨幣間の交換比率もとても複雑化してしまい、貨幣制度は混乱を極めました。
その中、明治政府は1871年(明治4年)に新貨条例を制定し、通貨単位を10進法の円・銭・厘に改めました。
そして、金1.5gを1円とする近代様式製法の新貨幣を発行しました。
1872年(明治5年)には、旧紙幣の回収を目的として政府が発行した新紙幣(明治通宝札)を製造。これは、当初ドイツで製造されています。
さらに、1873年にアメリカの制度にならった国立銀行を民間に作らせ、アメリカで製造した国立銀行紙幣を発行させました。
※アメリカのナショナルバンクは、国の法律に基づき民間で設立された銀行という意味。
国法銀行と言うべきだったが、当時は国立銀行と訳されていました。
1881年には、日本でも印刷技術が進歩し、偽造防止を目的として初めて肖像の入った政府紙幣である神宮皇后札が発行されました。
※イタリア人の彫刻家キヨソネが原版を作成したため、肖像の風貌は外国女性風になっています。
1887年、西郷隆盛を盟主に起こった西南戦争では、戦争費用調達のため政府紙幣や国立銀行紙幣が大量に発行され、紙幣の価値が下落して厳しい物価の上昇(インフレーション)が発生しました。
大蔵卿松方正義は、思い切った増税と経費の節減によって紙幣の回収を進め、インフレーションをおさめることに成功しました。
また、松方正義は、お金の価値の安定を図るために中央銀行の設立を提案しました。
こうして、1882年に中央銀行として日本銀行が誕生しました。
その3年後、最初の日本銀行券が発行されました。
このお札は銀貨と引き換えが可能で「日本銀行兌換銀券」(銀兌換=銀本位制度)と言います。
1897年には金0.75g=1円と改められ、同時にお札も金貨と引き換えられる「日本銀行兌換券」(金兌換=金本位制度)になりました。
海外主要国でも中央銀行制度が整備されています。
1668年に世界で最初に中央銀行が設立された国はどこでしょう?
答えは、一番最後に記載します(^^)
さて、これまで金本位制度できた日本でしたが、太平洋戦争が始まって間もない1942年(昭和17年)には日本銀行法が制定され、兌換義務のない管理通貨制度に移行しました。
このため、その後に刷り改められた銀行券からは「兌換」の文字が消えて「日本銀行券」となりました。
戦後は、戦争によって失われた生産設備の復興などで巨額の財政支出が行われ、激しいインフレになりました。
1953年にはインフレにより既に使用価値を失っていた銭・厘単位のお金が法律で使用停止され、日本のお金の単位は「円」のみとなった時期があります。
(現在でも「1ドル=80円75銭」などと円未満の計算単位では使用されています。)
1957年には五千円券が発行され、1958年には一万円券が発行され、高額の日本銀行券が登場しました。
また、偽造対策として印刷様式などに新しい技法を次々と採用するようになり、今日に至っています。
1950年(昭和25年)発行の紙幣から、横長の規格、肖像画の入った図柄、字体などに統一性が見られるようになりました。
現在発行されているお札は、2004年(平成16年)に改札が行われ、偽造防止策として「ホログラム」「潜像模様」「特殊発光インキ」「深凹版印刷」などの最新技術が使用されています。
お札の肖像画として登場した人物は、以前は政治家や歴史上の人物が中心でしたが、1984年に実施された改刷以降、福沢諭吉、新渡戸稲造、夏目漱石、樋口一葉、野口英世など作家や文化人などが描かれています。
1668年に世界で最初に中央銀行が設立された国は、スウェーデンでした。